Sat Nam
相変わらずユングのクンダリーニヨガの心理学ハマっています。
シェアしたいこと沢山なんだけど、書くとなると深く理解しないと書けないから多くのことが書けない🤣
今回はね、ユングさんこんなこと言っています。
『クンダリーニはシバとの合一(内なる自己との合一)してから戻ってくるのですが、これは人に直観が開けてきたことを象徴します。つまりアジュ二でこれら2つのちからの合一がおこったら、心的な生の全領域にその力が浸透します。だから、もう官女は最も低いエロス的な領域にさえも下降していけるのです。もしもクンダリーニを覚醒させたあとに俗な生活を送るとしたらそれは全く別のものです。同じに見えるかもしれませんが、彼の以前の経験とは全然ちがっています。それは新しいものなのです。しばらく日本の類例をみよう。』
『鈴木大拙の仏教に関する10のエッセイから、十牛図と呼ばれる絵について。牛というのは最終的なリアリティの象徴。長い探索の末に修行者は牛を見つけます。これは彼が自身の最内奥リアリティを掴んだことを意味する。そして非常に重要な特徴として、これはヨガでは明確に扱われないけど、牛を見つけると修行者はもはやそれを氣にしなくなるということがあります。彼は眠ってしまい、牛の世話をしません。牛が底にいることを彼はちゃんとしっているのです。すなわち。最高の直観を得てしまったら、いつでもそれを見続けているわけではない。あたかもその中に何もなかったかのように彼はそれを再び意識下へと落とし込むのです。だから、彼は陽光を顔に浴びながら、そこに横になって眠ります。そして目を覚ますと街へ行くのです。至福を得る手で街へ入っていく(入鄽垂手;にってんすいしゅ)彼のあばら家の戸は閉められており、最高の賢者なら彼がもういないことを知っている。彼の内面の性は、全く窺い(うかがい)知ることができない。なぜなら彼は古代の諸聖人の足跡をたどることなく、自分自身の道を歩むからである。彼は瓢箪をもって市場へと出かけていき杖にすがりながら帰ってくる。彼が大酒飲みや食肉解体業者と過ごす姿がみられる。彼もかれらもみんな仏になっている。 胸をはだけ、裸足で、彼は市場へと入っていく。泥と灰にまみれて彼はなんと大らかに笑うのだろう。神々の奇跡後からは要らない、なにしろ彼が触れればあら不思議、枯れ木に満開の花がさくのだから。』
クンダリーニヨガの世界では、第6チャクラ(眉間)辺りにシヴァが鎮座していて、シャクティがいわゆるクンダリーニ第1チャクラ辺りに鎮座しているエネルギー。このシャクティがチャクラを、背骨を上へ上へと上がっていき、シヴァと統合するプロセスがクンダリーニを活性化させるものになってくるんです。
それをユングは直観が開けると表現。そして、十牛図を使って、その目覚めのプロセスを説明している。十牛図は知ってはいたけど、詳しく調べたことはなくて今回詳しく読んでみたら、かなり深かった。
人は、真実を知りたい時に、何か自分の生まれてきた意味みたいなものを知りたい時に、絶望を感じた時に、投げやりになった時に、うまくいっている時に、うまく行かない時に、つまづいた時に、そういう衝動的なものが起こった時に、自己探求の時期に入る。そして面白いことに、それがある程度プロセスが進むと、また今までのような暮らしに戻る。もちろん、エネルギーは違うエネルギーをまといながら・・・。
ヨガの本などで知ってはいたけど、ユングのおかげでより理解できた氣がしてます。
ここで十牛図を例に出してくるユングもさすがだし、思わずこの鈴木大拙さんの著書も借りてきたよ。
まだ読んでないけど、禅についての本をかなり出している方でした。
そして十牛図に興味を持った方は調べてみて〜。たった10枚の絵で悟りのプロセス語ってる。
8枚目の円だけのは、書家の方とかもあの円だけの作品とかも作っているし、ここから来てたんだぁと感動。
ユング発信で、クンダリーニヨガ、十牛図、梵我一如、ウパニシャッドなどなど広がっていって読書が楽しい最近です。
でも、最後に基本的にユングは西洋人がヨガを実践することに批判的だったという落ち。🤣🤣🤣
日本人にはどうなんだろうか?
クンダリーニヨガのクラスやってます
https://shambhala37.com/archives/2367
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