禅について考える~京極夏彦さんからのあっちゃん~

気づき

Sat Nam

今日は読書のお話。
最近といっても、ここ1、2年京極夏彦さんにはまってる。5,6冊読んだのかな。1冊が長いから、なかなか進まず1か月以上とかかかるしね。ちなみに私はお風呂に本を持ち込んで読むのが好きだから、本は古本屋さんで買って、お風呂場に持ち込む。だから、読み終わるとすごいことになってるんだけど・・・
話がずれたな。で、京極夏彦さんの本、どれもほんとに面白くてさ~。宗教の世界や、スピリチュアルな世界の描写がとても面白くて惹きつけられる。

今回のここの下りなんてしびれた・・・(笑)

宗教には神秘体験が必要不可欠だ。しかし神秘体験と言うのは絶対に個人的認識なのだ。たとえどれほどすごい体験であろうとも、神秘は凡て個人の脳内で解決できてしまうものだ。その神秘体験を何らかの説明体系を用いて個人から解き放ち、普遍的なものに置き換えると宗教は生まれる。つまり神秘を共有するために、凡ての宗教は道具ー言葉を必要とするのだ。」

「禅は違うのだな?」

「そう、禅は個人的神秘体験を退け、言葉を否定してしまう。禅で言う神秘体験とは神秘体験を凌駕した日常のことを指すのだ。つまり、数ある宗教の形の中で殆ど唯一、生き乍らにして脳の呪縛から解き放たれようとする法が禅なのだ。」

「脳の呪縛?」

「そうだ。もちろん脳は躰の器官に過ぎない。しかし悲しいかな、我々は我々を取り囲む外側の世界をもまた、脳を以てしか識ることはできないのだ。外側すらも内包してしまう、それが脳と言う化け物だ。そして言葉は脳が外側を取り込んで改ざん再編集するために生み出した記号だ。この言葉を用いないという事は、脳を無視した世界認識をするということに等しいのだ。我なくして世界はあらず、同時に我なくしても世界はあり。その二つの心理を同時に識ることが悟りだ。」

「君は呪術の基本は言葉だと言ったな」「じゃあ禅に呪術は利かないのか」

「呪はね、脳が仕掛ける罠だ。だからあまねく脳の中だけで有効だ。そして人為的な呪ー呪術は言葉や呪物を用いずしては絶対に成り立たない。しかし、禅の半分は脳の外側にあるのだ。

何かとっても深いでしょ。
今回の”鉄鼠の檻””で一番響いた言葉だった。呪術=洗脳で考えると、言葉って怖いし、すごいなと・・・言葉の通じない禅ってそういう域?言葉はいらない?座って自分見つめる。それだけ?・・・禅恐るべし、瞑想ってやっぱりすごいんだと・・・禅、瞑想、マインドフルネス・・・・が流行っているのがすごく腑に落ちた~。

そういえば禅寺・永平寺に行ったことがある。残念に思ったこともあったけど、凜としたお寺でした。

      

永平寺では、座禅体験もしてみた。なかなかおもしろかったです。

で、この京極さん読んで、禅のことを調べてたら、あっちゃんのyoutubeに出会う。分かりやすすぎて、驚いた。禅は宗教ではなく、メソット・・・やっぱり瞑想はいいんだなと・・・①、②、③まであって長いけど、興味がある人はとても面白いからおすすめ。禅について、瞑想についてよく分かる。それにしてもあっちゃんの理解力+伝える力はすごい。他のも続けてみて止まらない。(笑)

私は、早くテレパシーと思ってる人だから、言葉はいらなくな~れ~ってずっと思ってるけど、京極さんとあっちゃんの言葉にしてこういう世界を伝えるって尊敬。言葉でしか呪いはかけられないなら、なおさら言葉は、大切で重たいものなんだなぁと。とくにまだこの世の中、言葉は大切なコミュニケーションツールで、見える世界と見えない世界の間を言葉で表現できるって、いや~いい。これ、勉強すればできるようになることなのかなぁ。(笑)

週末にお時間のある方は是非!!

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